CONCORSO D'ELEGANZA VILLA D'ESTE 2008 (最終回)
カーデザイン雑感
自動車は工業製品である。その機能は「人を乗せて走る」ことだ。そのシンプルな機能のために、これほどまでに多様なデザインが必要であったのか?Concorso d'Eleganzaを見て、改めてこの問いについて考えてみた。
結論から言えば「必要はない」のだ。走って、曲がって、止まるだけの機械なら、直方体の箱でもよい。セグウェイの4輪版でもよいかもしれない。
にもかかわらず、カーデザインがかくあるのは人がそれを求めたからに他ならない。ただの「走る機械」に、美しさを、力強さを、優雅さを、獰猛さを求める人々の望みに答えて産み出される、それは「欲望の機械」だ。走り、曲がり、止まる、という機能だけではなく、いやそれ以上に所有する者の欲望を満たすというミッションを与えられた希有な工業製品といってよいだろう。
仮に、我々が「自動車」という時、頭に思い浮かべずにはいられない自動車の映像は、(それがカウンタックであろうとカローラであろうと)誰が見ても自動車と判別しうる「デザイン」を具備していると考えることができまいか。亭主の経験に照らして見る限り、どんなに車に興味のない人であっても、カウンタックの写真を見て自動車として認識できない人はまずいない。逆に、トロッコの写真を見て自動車だと言う人もほとんどいない。
認知科学の分野ではもっと厳密な議論があることは承知しているが、亭主が言いたいのは文化的表象として捉えた場合のことである。つまり我々は、自動車誕生から100年あまりのうちに自動車というイメージを共有するに至っており、それはほぼ全地球的なレベルであるということだ。
具体的なデザインが異なっていても「自動車は自動車」。誰が決めたというわけでもないのに、カーデザインには「文化的普遍性」とでもいうべき特性があると亭主は考えている。批判を覚悟の上で言えば、これは「カーデザイン」がミームとして現代文明に定着したということではないか。そして、それはいつの世にも変わることのない人間の欲望と密接にエンゲージしているために、そう簡単に消滅することはないのだ。
ハイブリッド車や燃料電池車が盛んに発表される中、既存の自動車のデザインが必然性を失いつつあることを訴える声も少なくない。論理的にはもっともな見解だと思う。今後そうした立場を反映した製品が発表されることも増えるだろう。しかし、「カーデザイン」ミームを無視したデザインは、果たして「自動車」として受け入れられるのだろうか。あるいはデザインは現行の自動車のまま、中身だけを新しい駆動機関に換装すれば済むことなのだろうか。亭主には答えは分からない。が、ひとつだけ言えるのは人間の欲望が尽きぬ限り「欲望の機械」もまた消え去ることはない、ということだ。
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