けろこ堂日乗(β版)

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鯨の王

1998年だからもう10年近く前のことになるが、ボストンでホエールウォッチングに参加する機会があった。ボストンの港から1時間以上走って外海に出るとザトウクジラ(humpback whale)の群れに出会える。運が良ければ間近にブリーチング(背面跳びのように大きくジャンプする動作)を見られるのだが、それは叶わなかったものの、好奇心の強い仔クジラが船のすぐ横まで来たときには大層興奮した。仔クジラといっても10m近くはあっただろうか。その悠然とした姿には自然と畏敬の念が湧き上がってくるのを覚えた。そうか、クジラは海の霊長なのだ、と合点がいった。
鯨類の最大種であるシロナガスクジラには30mを超える個体もいるというが、この作品に登場するのはその2倍という巨大な鯨類だ。著者の藤崎慎吾はメリーランド大学で海洋・河口部環境科学を専攻した経歴を持つ。この著者には「深海のパイロット」(共著)というノンフィクション作品があり、さらに小説家としては初めて(!)「しんかい6500」で水深1500mに潜水したのだという。その体験がこの作品には遺憾なく生かされている。亭主はスキューバダイビングもしたことがない潜水のド素人だが、「しんかい」の記録映像などを人よりはかなり多く観ている方なので、この作品で描かれている深海潜水のリアルさは読み取れる。
作中では潜水艇が重要な役割を果たすのだが、実はこの潜水艇、その昔ジャック=イヴ・クストーが開発し「太陽のとどかぬ世界」に登場した潜水円盤「スクープ」をモデルにしたと思われる円盤形潜水艇だ。その描写を読んだだけで、深海潜水艇マニアは思わずニヤっとしてしまうこと請け合いである。スクープの設計深度がいかほどであったかは確認できないが、この潜水艇アンビリカルケーブルを必要としない自由航行型でありながら3000mの潜水性能を持っている優れものだ。こういった設定だけでも、著者がいかに深海に入れ込んでいるかがわかるというものだ。
しかしながら、海底居住施設や潜水艇を視覚的にイメージできないと、この作品はちょっとつらいかも知れない。メカ的な描写は置いておくとしても、飽和潜水や減圧の問題を理解していないと、減圧室に何日もこもっていなければならないという大変さがピンとこないだろう。そういう方には、先にあげたクストーの「太陽のとどかぬ世界」をお勧めする。手に入らないという向きにはジェームズ・キャメロンの「アビス」が最もてっとりばやい。エド・ハリス扮するブリグマンが最後に使用する液体呼吸システムは、この作品にも関係が深い。
もちろんこの作品はこうした知識がなくても十分に楽しめるのだが、亭主としては著者の入れ込みに荷担したいところである。

鯨の王

鯨の王

深海のパイロット (光文社新書)

深海のパイロット (光文社新書)